猟期も終わり。

猟期も終わり。

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3月15日を以て、三重県の狩猟期間も終わり、これで令和3年の猟期は終わったことになる。

三重遠征の最終回は、海辺の山へと足を伸ばし、そこは例年であれば猪の銀座と呼ばれるほど密度の濃いエリアだ。

ところが蓋をあけてみれば、猪の”い”の字もないほどに彼らの存在感は薄かった。

今年の猟期は、本格的に単独猟に舵を切った初年度で、猟果という視点からいうと残念なものだった。

カイが噛み止めていた雌の鹿一頭。

でも、内容としては狩猟を始めてからの5年間の中で最も内容の濃いシーズンだった。

なによりも、獣を含めた山、引いては自然というものに対する向き合い方や姿勢を学んだように思う。

猪の頭数の減少(もしくはどこか人間の感知できないところに逃げているのかもしれないけど)からも分かるように、豚熱の影響というものがすさまじいことを知った。

じわじわとその甚大さを実感するにつれて、複雑な心境にもなった。

単独単犬で、三重に県外登録までして山に入るからには、猪を獲りたい。

獲ることで、カイの成長にもつながる。

一方で、猪たちがいなければそもそも猪狩りは成立しない。犬と山に入る意義もなくなる。

まだ豚熱に罹患していないか、あるいは抗体を有して生き残っている猪にはこのまま生き延びてほしい。

獣の生存があってはじめて、狩猟の存続がある。狩猟文化は常に自然という土台の上にある。

2月に入ってからの渉猟は、猟欲と呼べるものと、それと相反する憐みのような何かがごちゃ混ぜになった心持ちで山を歩いていた。

海辺の山を歩いた最後の猟。

カイがけたたましく鳴いて、終われて逃げた先のシダ藪の中に逃げ込んだ猪を、撃とうという気になれなかった。

そんな状態で、まともに引き金を引ける気もしなかった。

カイはまだ追求したそうな様子でいたけど、諦めることにした。

「猟師たるもの、目の前にいる獲物を逃がすべからず」というものなのかもしれないけど、
ぼくはそれがいいとは思えないし、そうあるのが猟師だというのであれば猟師ではない別のなにかで構わない。

猟期が幕を閉じると、途端に季節は春めいて、河津桜が満開になった。

コロナ禍ってなんだっけと思えるほど人がいた。マスク着用、アルコール消毒という新生活様式がもう日常になっていることにふと驚いたりする。慣れってこういうことをいうのだろう。

そういえばいつの間にか、あれだけ毎日騒いでいたコロナの新感染者数及び累計感染者数(これはほんとなんの意味があったのかわからない)の報道も少なくなった。

スパイスカレーのお仕事のほうもありがたいことに順調で、毎月売上は右肩上がりで更新している。

おもしろそうなイベントへのお誘いもちょくちょくいただくようになった。

いろんなイベントに出るとうことはそのときどきで場所が変わるということだ。

場所が変われば、そこに集う人も変わる。人が変われば、雰囲気も変わる。

そうすると必然、それらの情報をキャッチしているぼく自身も影響を受けるから、つくるスパイスカレーもやっぱり変わる。

常に一定のクオリティのものを提供するのがプロフェッショナルなのかもしれないけど、
変化していくことを柔軟に受け止めることの方が今は大事だと思っている。

変化に対する自分のリアクションに抵抗しようとしないこと。

つまり、楽しむこと。

スパイスカレーは毎回ちがう。正しくは、変わってしまう。

まず自分自身が楽しもうとすると、そうなるのだ。

手を動かしてつくっているのは間違いなくぼくだけど、”つくっているのは自分です”という感覚はまるでない。

食数とか、原価とか頭を使うのはそれくらい。そこからはたぶん、考えてつくってない。

予想していなかった仕上がりになることも割とあるけど、”まずく”はならないのが不思議なもので、こればかりは自分のセンスに感謝したい。

この予想外が実は宝で、発見はいつもこの瞬間に起きる。

スパイスカレーのお仕事は、今のところ、この探求の過程を自分以外の人に評価してもらっている、という姿勢でやっている。

おいしいかどうか、いいかどうかは、自分の尺度で決めない。むしろ「おいしいです」と言ってもらえると、「これでいいんですか?」といつも思っている。

先日、トレーラーハウスをセルフビルドしている方のところにお邪魔させてもらった。

新しい暮らしの拠点が欲しいなと思っていて、空き家を見つけてリノベーションして…と考えていたけど、土地を見つけて一からつくる、という発想もありだなと、選択肢が増えた。

なにより、枠組みすらも自分で構築していける自由度がとてもいいと思った。

空き家だと、アウトフレームは既に決まっているから、どうしてもその制限がある中で物事を設定していかなければならない。

それに囚われなくていいとなると、俄然おもしろくなる。

陽気が暖かくなり、草木が色づいて、目は山から川や野へと向くようになった。

渓流ルアーの楽しみが増してきて、暇があれば川にでかけている。

ようやくイワナやアマゴが遊んでくてるようになった。

春、桜の咲き始めから散るまでに出る、アミガサタケというキノコを見つけることが目標になって、桜スポット(桜の木の根元によく出るらしい)を巡る日々を過ごしている。

桜を見上げているのではなく、地面を見ているのだけど。

山や川や野に出ていると、日常の些細なことはどうでもよくなってくる。

星空を見上げて、自分のちっぽけさを知るみたいなことはよく聞くけど、きっとあれと同じ作用だ。

それは現実逃避なのでは?と聞かれると、果たしてそうか?と思う。

狩猟という営みを通して感じているリアルはその疑問符の答えであるように思えるし、
多くの人が”現実”と捉えている世界に対するアンチテーゼにも見えてくる。