鈴とGPS。

鈴とGPS。

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昨シーズンの猟期から、山にいくときに犬の首にGPSをつけることをやめた。

代わりに今シーズンからは鈴を購入して、それを首につけている。

GPSを外す前は、

「GPSがなかったら犬が山のどこにいるのかわからなくなる。不安だ」

と思っていたし、鈴をつける前は、

「鈴を鳴らしながら山を歩いたら獣に気づかれて逃げちゃう。不安だ」

と思っていた。

結局どちらの不安も的中はせず、代わりにおもしろい学びを得られた。

ぼくは単独で山に入る狩猟スタイルをとっている。犬も一匹。

GPSをつけていれば犬がどこにいたって、遠く離れていたって安心、なのは間違いないだろうけど、
そもそも犬の姿も見えないし、鳴き声も聞こえないほど遠くに離れてしまっては獲物は獲れない。

1人なんだから、そのさきにタツマの人はいない。犬が追いかけていった先で獲物を仕留めてくれる人はいない。

犬の姿が見えているか、遠くとも、生の鳴き声が聞こえる範囲に犬がいないと引き金をひくチャンスはない。

そうなると、山を犬とつかず離れずで歩くことが前提になる。

犬が止まればこちらも止まり、こちらが止まれば犬も止まる。

そしてまた一緒に歩きだす。そういう距離感と関係性だ。

GPSは犬が今いる位置をほぼ誤差なく教えてくれる。便利で安心だ。

だけど、”犬の正確な位置”という単一の情報以外はカットされている、ともどうやらいえるようで、
これはぼくがそうだっただけで、他の人はそうではないのかもしれないけど、
気がづいたらGPSからの情報だけで山を歩くようになっていた。

歩いては止まって、GPSを見る。自分の位置と犬の位置を確認。

情報としてインプットされて「あぁここにいるのか」と安心できるとまた歩き出す。

狩猟をはじめた初期からGPSを使っていたからそうなってしまっていたのかもしれない。

ぼくは山を歩いていたわけではなく、GPSの中の地図を歩いていただけ。

だってそこには科学的に裏付けのある正確な位置情報が表示されていたから。

難しいもので、科学的な根拠や、論理的に妥当性のあるロジックの前では、”感覚”というものへの信頼は二の次になる。

「いや…でもまぁGPSではこう表示されてるし」

この言葉が、頭の中でいつもよぎる。

感覚や、いわゆる”勘”というものを判断基準にすることはそれほどなく、あったとしてもやはり目の前のGPSから得られる情報との天秤にかけられてゆらぐ。感覚への自信がなくなる。

GPSを外したときは、自分にとってのコンパスがなくなるようなもので、不安だったのだ。

ところが、人間というのは不思議なもので、GPSがなくなると、途端にそれ以外のところから得られる情報を必死にキャッチしようとする。

目に見える地形。植生。物音。におい。獣の食痕。足跡。糞。気温。風向き。風の強さ。太陽の位置。山に当たる日の向き。

今まで見ていた山の景色とまったく違う光景が目の前にある。

次第に平面的だった情報が、立体的な輪郭を帯びて広がっていく。

今まで捉えきれていなかった情報を五感で捉えるようになると、山の見え方がこんなにも変わるのかと驚かされた。

そして、犬につけた鈴。これの果たす役割もようやくわわかってきた。

鈴はただチリンチリンと鳴っているだけではない。

主人と猟犬の距離には段階があって、

①お互いの姿が見えている距離

②姿は見えないが音(動く音や鳴き声)は聞こえている距離

③姿も見えず、音も聞こえない距離

1人狩りでは、①と②の距離を行ったり来たりする。③の距離は極力ないようにしたい。

①はいいとして、②の距離が難しい。②にも近い・遠いの間の階層がある。

遠くなると、動くことで出る小さな物音をキャッチすることは困難になる。

そこで、鈴だ。鈴が聞こえているということは、まず犬が50m範囲内にいることは間違いないと思っていい。

単独猟だとしても探索でそれぐらいの範囲は探してもらいたいから許容できる距離感。

100m離れると鈴の音はかすかに聞こえる程度。200m離れると音を拾うのは難しいか、地形によっては聞こえなくなる。

鈴をつけることによって、②の距離感の中で捉えられるグラデーションの幅がぐっと広がる。

そして、もうひとつは犬の動き。

鈴の音のテンポが遅いときは犬は歩いているか早歩き、気持ち的にも張りつめていない。

テンポが速くなると何かの気配をキャッチしたか、においをとったというこ。

そちらに向かって足を早めたと思っていい。犬も気を張りつめている。

鈴の音が止まる。犬も止まっているということ。

呼び戻すときにはこのことがとてもよくわかる。

口笛や声で犬を呼ぶときは、2、3回繰り返す。犬は1回目の呼びかけでその音に反応し、2回目、3回目の呼びかけでその方向と距離を予測して動き出す。

一回目の音を聞いて犬は立ち止まり、鈴の音が止まったことを確認してまた繰り返し呼んでやると、また動き出す。

姿は見えなくとも、鈴のおかげで音から犬の挙動と存在をありありと感じ取ることができる。

GPSが示す位置情報は正確で、情報としての存在感がとても強い。で、あるがゆえに、排他的で平面的。

五感でキャッチできる情報は、情報としての存在感は微弱で気を張っていないと取り損ねる。そして不確か(自分自身の感覚を信じきれない場合は)。しかし、複合的で立体的。単一では微細であるがゆえに、他の微細な情報と手を取り合える余白をもつ。

どうやら人間の五感というものは、外界のあらゆる情報をミックスして立体的な構造で捉える機能を備えているらしい。

ヒトという生物種の本質は「モノ(道具)をつくり、使用することにある」という定義を、
ある本の中で見たことがある。すごく興味深い内容だった。

他の生物と区別をする意味で、”ホモ・ファーベル”と呼んでいた。ファーベルはラテン語で”工作人”とかそういう類の意味だった。

身の回りにある道具、そこに織り込まれている技術は、人間の身体機能や身体感覚の外在化であって、そうすることよって自分の身体以上の能力へと拡張したり、身体が持っている機能をそのまま自分以外の別のものに置き換えることもできる。

メガネは視力の拡張だし、今このブログを書いているパソコンは、人間の脳の機能(記憶や演算)という能力を超拡張したものの外在化。

人類史を見てみると、道具と技術の発達とともに我々は進化してきた、らしい。

人間がホモ・ファーベルであることで、周囲の環境はどんどん便利で豊かなものになっていく。

周りを取り巻く環境が便利になっていくということは、その分、今まで自分たちでやっていたことをやらなくてもよくなっていくわけだから、身体活動は減少していく。

そうすると何が起こるか。精神活動が活発になるらしい。このことが一番興味深かった。

今まで自らの身体を使ってこなしていた作業を機械に任せられるようになれば、身体活動に割いていたエネルギーと身体活動に伴う脳の働きは余る。余剰分は思考の発達に充てられる。

おそらくこのサイクルで技術発達は邁進してきたはずだし、環境が便利になればなるほど、これまでにはなかった新たな思考がどんどん生まれる。

映画の「マトリックス」なんて、多分その究極の世界を描いていたんじゃないかと思う。

自分が生きている世界すらも精神(思考)のみで形成されていた。
ありえない話じゃない気がする。

あと逆の視点に変えてみると、鬱病が現代になって増加しているのも、このことと無関係ではないなと思う。
精神活動が活発になるってことは、ポジティブな側面だけではなくて、必ずその対極のこともある。
作用・反作用はセットだ。

ぼくが狩猟をやりつつ、このブログの中で書いているような思考をかき回し続けているのも、
ホモ・ファーベルであることの恩恵(あるいは呪い?)だろうと思う。

もしこれが、食料としての肉を得るための狩猟で、肉を得られない=死であるならこんな思考を巡らす余裕なんて多分ないと思う。

好きなときに山に行って、獲っても獲れなくても死ぬわけではない。お金があれば好きなものを食べられる世の中に暮らしている。

だからこそ、こうやって悠長に物事を考えられるんだ。

めちゃくちゃありがたいし、ホモ・ファーベルでよかったと心底思う。そのおかげで幸せだ。

感謝の意を示したところで、もう少しこの思考を進めてみる。

狩猟をやっているおかげで、”ホモ・ファーベルであることからは少し離れた世界に身をおく”という選択肢をぼくは持つことができている。例えるならホモ・サピエンスくらいになっているような感じだろうか。わからないけど。

GPSを手放すという行為もおそらくこれに準ずるもので、いわばファーベルからサピエンスへの逆行だ。

こんなに便利な世の中に生きていて、食べものは潤沢にあるわけだし、わざわざ苦労をして狩猟をする必要性なんて、普通に考えればまったくない。

自分でもそう思いながら狩猟をしているけど、今なお狩猟文化が残っていることの意味は、その”逆行”にある気がしてならない。

周囲の便利なものに委ねてきた身体機能と身体感覚を自分の中にリバイバルさせること。

とはいえ、これだとリバイバルしたその結果、ぐるっと一周回って原始の状態に戻っただけのような気もする。

そこで思考を働かせる。現代ではこれができる。
そうすることによって、過去に見出されることはなかった狩猟文化の価値を見つけられるかもしれない。

狩猟の世界もこれからどんどんファーベル化が進むとぼくは思っている。

有害駆除の側面が年々強くなるし、世の流れに沿うなら、より生産性があって、効率的な方向へと流れていく。

ドローンが獣を追う時代もそう遠くないんじゃないだろうか。

それはそれで、第一線で担う人たちにお任せして、ぼくはどんどん逆行していきたい。

逆行して、思考を巡らせて、見出した哲学を残していきたい。

メインストリームの片隅でひっそりと失われていくであろう価値を拾っていけたらと強く思う。