狩猟キャンプ翌日、朝の冷気で目が覚める。
寝袋二つ、毛布一枚にくるまれるだけくるまって床についたのだが、この時期の野営を完全になめていた。
刺すような寒さを顔面と頭部と足先に感じる。
動けるスペースなんてほぼない寝袋の中で、これでもかというぐらいからだを丸めて窮屈な体勢で眠っていたようだ。
全身が強張り、固まっている。
寝袋の表面にびっしり付着した結露の水滴のせいで、寝袋が重く、つめたい。
ここからまた眠りにつける自信はなかったので、起きてテントを出た。吐く息が真っ白だ。
時計を見ると6時。日はまだ昇っておらず、辺りは薄暗い。
前日の猟を終えたあとに連れてきたカイがこっちを見てクンクン鳴いているので散歩に出かけた。
そういえば友人が、「朝の8時頃になるとキャンプ場近くの田んぼにキジバトが集まってくる」と言っていた。
空気銃を持ってきていたので、キジバトを仕留めて食べることにした。
5年前、狩猟をはじめようと思うちょっと前のこと、初めて一から自分の手で解体したのもキジバトだった。
7時半、山の向こうに昇りはじめた太陽の、山の木々を透過して漏れてくる光が辺りを照らしはじめる。
それを待っていたかのように、田んぼの周囲の木々にキジバトが集まりだした。
一羽、また一羽と、中継地点の木から、田んぼへと降りはじめる。
空気銃に手動のポンプで圧縮した空気を入れる。これがけっこうつらい。
何回もポンプを上げ下げしているうちに、からだがあたたまった。汗をかいている。
空気銃を持ち、田んぼでエサをついばむキジバトの群れに気づかれないように、
ゆっくり、ゆっくり、近づく。
田んぼの縁から頭だけ覗かせて様子を確認すると、ざっと40羽くらいの群れだった。
群れがとどまっている上段から距離をつめたので、気付かれることもなかった。
手の小指の爪1/4程の大きさの鉛玉をマガジンに装填して狙いをつける。
一番手前にいたキジバトの首辺りに当たった。
一斉に飛び立っていくハトの群れ。そのうち一羽が斜め下方向にパタパタと弱々しい羽ばたきでそれていった。
そのまま田んぼの中に沈む。
20mもない距離だったから、狙い通り首に当たっていればきっと弾は貫通している。
歩み寄って拾い上げると、首の根元から尾っぽに弾の抜けた痕があった。
胴体を貫いてしまった。
抱えた両手にまだ残るハトの体温が伝わる。寒さでかじかんだ手だから、余計にあたたかい。
5年前に初めて捌いたキジバトの感触と同じだ。指に少し力を入れて撫でるだけで、羽が抜ける。
羽を抜ききったら、残った羽毛を焼いて、肛門の周りに切れ込みを入れて内臓を引きずり出す。
立派な砂肝。焼いたら美味しそうだ。半身にして、塩だけ振ってグリルにした。
5年前、畑の鳥除けネットに引っ掛かって死んでいた野鳥を目の前に、どうすればいいかも分からずYoutubeで「鳩 捌き方」と検索をかけた現代っ子な青年は、空気銃を担いで、今度は自分で仕留めたキジバトをググることもなく捌いて食べている。
ほんと、人生何がどこでどうなるか分からない。
5年前の自分に、今の姿を見せてやりたいと思う。何て言うかな。
今いる地域に移住した理由も「狩猟をするため」であるし、「狩猟をしている」というワードが日常的に聞き慣れないのもあるだろうし、ぼくの見た目も全然猟師っぽくないので、「なぜ狩猟をするのですか?」という質問をこれまで何回もされた。少なく見積もっても絶対100回はされている。
その質問への回答は、聞かれたタイミングによって違ったりする。内容は違えど、どれも事実ではあるけど。
あとは単に長々と話すのが面倒くさくて、端折ることもある。
答えながら、「そういう理由もあったのね」と自分で新たに気付かされることもあるし、反対に最近は大層な大義名分は削ぎ落されて、自分の中でより簡単な答えになってきた気がしている。
きっとこれが核心なのだと思う。
そしてその核は5年前にハトを初めて捌いたときからおそらく変わっていない。
単純に狩猟をしているときが”心地よい”からだ。
鉄砲をメンテナンスするとき。
山に向かう車中。
肌を刺す冷たい空気。
風に揺られてこすれる枯れ葉。
獣に遭遇したときに高鳴る鼓動。
引き金を引く瞬間。
大汗をかいて獲物を引き出す苦労。
時間を忘れて捌く時間。
獲物の肉の味。
狩猟に関わるそれらすべてが心地よいから、ぼくは狩猟をやっているのだと思う。
当たり前のことだけど、やってて不快なことはしたくない。
やりたいから、やる。それでいいんだと最近は考えるようになった。
とはいえ、「なぜ狩猟をするのですか?」という質問に「心地よいからです」とだけ答えると、追加で質問されて回答を増やすだけな気もするので、結局それっぽい(でも事実ですけどね)回答を言うようにしようと思う。