先導者は探求心

先導者は探求心

2020年7月24日
考えること。

狩猟という言葉には、「広く探し求める」という意味がある。

それは当然、狩猟の“生きる営み”としての側面である「野生の鳥獣を獲る」ことを指し示しているのだけど、

そこにもうひとつ、「何にも囚われず、自分の求めるモノを探求する」という精神的な姿勢のことも意味しているのだ、と勝手に付け加えて解釈している。

自然に分け入り、必要以上に身に纏った先入観や思考や常識という鎧を脱ぎ捨て、
曇りなき眼と感覚で周囲に広がる状況を観察し、獲物を辿るプロセス。

そこから学び得るものはとても多い。

そしてどうやらそれらの経験や知恵は狩猟の中だけに留まる話ではなく、
それ以外の日常においても活かすことができると確信を持ったのはわりと最近のこと。

“日々、狩り”なのである。

向上心や努力。一見するととてもポジティブな言葉として受け取れる。

弛まない努力。尽きることのない向上心。

しかしながら、ときとして、それらを持っていなかったり、していなかったりすると、

それはなんだかいけないことのように思えてしまうし、ともすると、責められているような感覚さえ抱くこともある。

“そうあらなければならない”というものには、どうも窮屈さを感じてしまう。

だから、自分がやりたくてやっていることや、日常生活でしていることは、

努力とは捉えていないし、別段、向上心を持ってそれにあたっている、とも思っていない。

どちらかと言うと、探求心とか好奇心を原動力に動いている。その範囲内や延長線でやっているという感覚。

人の内から、自然発生的に、内発的に、発せられるようなエネルギーを表す言葉がいいなぁと常々思っていて、

その意味では、この感覚が個人的にとてもしっくりくる。

振り返ってみれば、ぼく自身のスタンスとして、いつも疑問提起から入っていく性質があるなぁと客観的に捉えている。

例えば、“満たされなさ”とか“生きづらさ”。

なぜそういった感覚を抱いて、なぜそのようなことが今起こっているのか。

その要因を探ったりとか、そうであるならばこっちのやり方もあるのではないか、とか、

その過程で学んだり、経験をしていくことに喜びを感じている。

ぼくがあるときから、狩猟をやることを目指し、今現在その道にいることも、それを思えば、

とても自然な流れだった気がしている。

それこそ、狩猟への熱量を担保する原動力は“生きるとは何なのか”という、生と死に対する根源的な問い(探求)に端を発しているからだ。

ぼく自身と狩猟に中にある要素がうまく噛み合っているのだと思う。

「探し求める」のがぼくの人生が終わるまでの恒久的なテーマなんだろう。

「ゆっくり、いそげ」著者:影山知明氏

「働く」ということについて考えを巡らせる時期があって、そのときに一冊の本と出合った。

「ゆっくり、いそげ」という、なんとも矛盾するようなタイトルの本だ。

東京・西国分寺にある「クルミドコーヒー」というカフェの経営者である影山知明さんの著書。

この本との出会いは、まさに偶然のことだったのだけど、

この出会いによって、自分の中で、じわじわと、しかし着実に変化が起こり、

後にとてもおもしろい流れを巻き起こしていくことになる。

そして、これもまた興味深いことに、この本の中で紡がれる言葉たちは妙に「狩猟」で経験していることともリンクしていく。

(つづく)