初夏から盛夏へと、時期は確かな足取りで移ろいでる。
ふと、上空を見上げると、圧倒的な体積で空に陣取る入道雲が、山の向こうに迫っていた。
そのせいもあってか、なんだか空が近く感じる。
そういえば今年はまだ梅雨入りをしていない。
例年より少し入梅が遅れている気がする。
冬の降雪量・積雪量もさほどなかったから、山はほとんど水を貯えれていないはずだ。
加えてこの暑さ。
川の水量も目に見えて減ってきて、渇水気味である。
この日は、前回の渓流釣りで終了したポイントの続きから遡上すべく、夕方川へ向かった。
夏になれば、じりじりとにじり寄る暑さから逃げるように、人は涼を求め動く。
標高の高い避暑地へ、冷房の効いたお店の中へ、あるいはぼくのように川へ。
渓流は思いのほか涼しい。ともすると、ちょっと肌寒く感じるくらいの場面もある。
水はとても冷たいし、加えて、木々が頭の上を覆っていたり、突き出した岩壁が空を遮っていたりするから、
直射日光を浴びるシチュエーションが少ない。
それを体感で理解しているから、釣りをしながら“涼む”という意味合いも、この時期の場合はある。
そして、そのことを知っているのは、ぼくだけではない。
獣とて同じである。
川岸の砂の上にくっきりついた、数頭の鹿の足跡。小さいものもある。子連れだろうか。
春を過ぎ、気温が高くなる時期に入ると、川の辺りには獣の足跡が多くなる。
これまでそれほど渓流釣りをしてこなかったから、この時期に川に行くことは少なかった。
実際に川筋を歩くと、入ってくる情報は釣りのみに終始することはなく、この時期の獣たちの動きも観察することができる、ということに今更ながら気が付いた。
川(あるいは谷)というのは、山と山の切れ目と捉えることもできる。
草木も川筋では一旦、分断される。
そうであるから、獣たちの足取りがダイレクトに、かつ明瞭に刻み込まれている。
そして、新しい発見だったのは、川岸の砂は多くの場合、湿気を含んでいるから、
獣の足跡の新旧が判別しやすい、ということ。
旧ければ、足先で押し込まれて盛り上がった部分の砂は乾き気味の様相になる。
「こっちの山から下りてきて、こっちの山へ移動したのか。」
「やたらに同じ範囲を歩き回っている。水飲み場だろうか。」
そんな観察と推測を、ロッドを片手に、巻き戻すリールをもう一方で握りながら繰り返す。
川と、魚と、対話し、同時に獣とも対話をしてるような気分だ。
そんなことを考えながらキャスティングをしたら、頭上の枝木にルアーを引っ掛ける。
川に入って枝に近づき、なんとか取り外せたと思ったら、スナップごとどこかに落としてしまった。
相変わらずのままならなさに落胆しながらも、今日の授業料と割り切る。
どうやら今日はここで終いとした方がいいようだ。