『羆撃ち』久保俊治著

『羆撃ち』久保俊治著

2020年4月12日
考えること。

複数人で構成されたグループで猟を行う巻き狩りにおいては、シーズンを通して全く獲物に出会えなかった、ということは割とある。犬に追われて逃げてくる獲物を待ち構える役をタツマと呼ぶのだけど、すべてのタツマに均等に獲物が行く、なんてことはまぁなくて、「全然来なかったなぁ」という人もいれば、「なんだか今シーズンはやたらに俺のタツマに出た」なんていう人もいる。その差は何なのかと言われると、“経験”“運”に尽きると思うのだけど、たまに「殺気が強すぎて獣に避けられたなぁ」なんていう話することもあった。それは言っている人も言われた人も冗談として捉えているし、僕自身も笑い話として受け取っていた。狩猟の経験が重なっていくにつれ「殺気ってひょっとすると本当にあるのかも」と考えるようになった。それがほぼ確信に変わったきっかけを与えてくれたのは、昨年の冬直前、単独忍び猟で山に入った際に仕留めた牝鹿だ(そのときの詳細はこちらの記事で書いています)。

殺気というのは、読んで字の如く、殺そうとする気合い(あるいは気負い)のことで、狩猟においては獲物を仕留めようという人間の欲であると認識している。その欲というものを獣たちは、敏感に感じ取る能力に長けているのだと思う。もちろん人間も同じ動物であるからその感覚は例外なく有しているはずで、例えば相対している人が怒っているのか、それとも喜んでいるのかの違いを感じ取る能力はその一端だと思う。それは相手の表情から読み取るのかもしれないし、声色から判断するのかもしれないし、体の挙動から見て取るのかもしれない。ただここで言うところの殺気(獲物を得たいという欲)というものは、まさに視覚的には認知できない“気”のことで、周囲に漂う雰囲気というのか、空気感みたいなものだ。その意味でいくと、現代の実生活においては殺気を敏感に感じ取る能力は必要がなく、ほぼ退化してしまっていると言えるかもしれない。

狩猟を始めた当初はやっぱり「獲りたい、撃ちたい」みたいな感情がかなり強く自分の中に渦巻いていた。その当時からの統計で行くと、年を重ねるごとに、自分が任されたタツマに獲物が出てくる回数は徐々に増えていった。その要因は何だろうかとずっと考えていたのだけど、“タツマで自分が待ちを張るべきポイントの要領を掴むようになった”ということと、もう一つ、“殺気(猟欲)が薄まったから”ではないかという感覚を抱くようになった。意図的に殺気を抑えるなんていう高等なテクニックを身につけたわけではなく、ある程度場慣れしたことでタツマに立っていても落ち着いていられるようになったということと、これは消極的な姿勢がもたらしたものだけど、巻き狩り猟で獲物を獲ることに対して熱意を持てなくなってしまったことが殺気が薄まったことの理由だと思っている。だから、気が付いたら心が凪の状態だった、ということになる。そんな精神状態であるから、上手く木化け(タツマにおいてなるべく息を潜めて木と同化すること)できていて、獣もこちらの存在に気付きにくくなったのではないか、と。

そんな感覚を抱くようになってから、単独猟でもどうしたら殺気を消せるかみたいなマインドで山に入るようになった。意識し始めると、面白いもので、やはり一つ一つの状況のに対して鋭敏になることで、ますます殺気の存在を確信させる要因に気付くようになる。例えば、鹿の発情期にはコール猟に行くのだけど、発情期の牡鹿は非常にハイな精神状態だから、こちらのコールが耳に入ると荒ぶるように駆けつけてくる。ところが、フィールドサインが濃くて牡鹿が近くにいることが間違いない条件下でも、自分の中の「獲りたい」という思いが強いときほど、全く来ない。同行者がいるときなんて、やはりなんとか獲ってやろうと思うのだけど、その欲が強くなるほど空回りする。反対に、一人で、「まぁ下見がてら、獲れなくてもいいや」なんて考えているときは、二頭の牡鹿が飛び出してきた。あと典型的な例は、「鉄砲を持ってないときほど獣との遭遇率が高い」という事実だ。これは狩猟あるあるだと思われる。

話が戻るが、昨年の忍び猟で仕留めた牝鹿は、「追っているようで、追っていない」というマインドで獲った。どういうことかと言うと、コール猟が全くダメで、そちらはもう諦めて、「さっきの牝鹿を見かけた方向から下りてみるかぁ」ぐらいなテンションで下山していたら、その牝鹿に遭遇したのだ。しかもこちらの存在に気付かれることなくかなりの距離まで近づけた。目的は発情期の牡鹿だったから、目的外の牝鹿に興奮で心が沸き立つでもなく、平常心で、静かに引き金を引いた。結果的に猟果が得られて、「よし」と嬉しさが込み上げたのはちょっと時間が経ってからのことだった。それぐらいマインド的には凪のような状態だった。それ以降、殺気があることはほぼ確信に変わって、単独猟をしていくのであれば、殺気のコントロールをできるようにならないといけないなと思うようになった。そんなときに読み進めていたのが、北海道で単独での羆撃ちに挑み続けている伝説の猟師、久保俊治さんの著書『羆撃ち』だ。まだ狩猟の“し”の字も頭にないときに情熱大陸で観た久保さんの映像は今でも強烈に脳裏に焼き付いている。情熱大陸の映像はなかったけれど、プロフェッショナルで放送された動画は上がっていた。

【殺気】

そんな久保さんの著書の中で、殺気に関して言及している内容があった。

実家で過ごしていたある日のこと、近所の犬の、自分に対する反応の異常さに気がついた。他の人が近づくにつれ、吠え方が激しくなり、姿が見えなくなるまで吠えついているような犬が、私に対しては、近づくに従い吠えるのを止め、最後には尻尾を巻いて犬小屋に逃げ込んでしまうのだ。(中略)前年の羆猟のことを思い出しているうちに、ふと思いつくことがあった。羆が獲れなかったのは、撃ちたい、獲りたいと思う気持ちが強すぎたからではないか。そして、そんな殺気のようなものが身に染みてしまった自分に対して、犬までも反応しているのではないか。(中略)羆を追っていくときの緊張と興奮が、他の獲物を追うときのそれとは比べものにならないほど強く、それが最後の詰めの甘さとなって、逃げられてしまうのだろう。

「羆撃ち」より抜粋

単独忍び猟における、しかも相手が国内最大級の肉食獣である羆である場合の、本人が抱く緊迫感と恐怖と昂奮がどれほどのものなのか想像だにできないけれど(巻き狩りの中で自分が抱いていたものとは比べものにならないものだということは容易に推測できる)、久保さん自身も羆撃ち猟の中で、ニオイや物音といった五感で知覚できる以外の何かが獣に対して作用している、と感じ取っていたことが分かる。殺気は絶対に在るはずだ、と思いながらも目に見えるものではないし、どこかスピリチュアルでオカルトチックな気もするし、周りの猟師でもそんなことを真面目に話している人を見たことがないから、自分の中に潜めていたんだけども、久保さんも自らの経験と感覚から殺気という存在に気が付いたプロセスを読んで、自分の感覚は間違っていなかったと少し嬉しくなった。そもそも、自らが生み出す外部への作用、例えば足音や擦れる音などの物音、咳払いやくしゃみ、呼吸の音まで、その根本にあるのは心(精神状態)で、心の在り方が五感で感知できる要素の性質を大きく左右する。獲物を獲りたい、撃ちたいという心の在り方は、自らの行動を大胆に、雑にさせてしまう。より強い猟欲がより良い猟果(ここでのより良い猟果とは獲った獣の数だけにとどまる話ではない)に結び付くかと言えば、かえって遠ざかるという話になる。むしろ、心穏やかに、息をするように、自然体で猟に臨めるのが理想だと考える。その領域にはまだまだ遠く及ばないのだけど、これはもしかすると殺気をコントロールしていく方法に辿り着けるかもしれない、というヒントは掴みかけている気がしている。

【全体視野】

殺気をいかにコントロールしていくのか、その確固たる方法は未だに分からなくて、暗中模索という状態。ただ、今のところの着地点としては、「獣を追わないように追う」というもので、つまりどういうことかと言うと、意識を獣だけに向けないということが重要なのではないか、と考えている。例えば、獣が残した痕跡だけを追うと、自ずと意識は獣のみに集約されていく。痕跡から獣の姿形を想像し、その場所にいたときの状況が浮かんでくる。それ行為とスキルはトラッキングにおいて必要不可欠だと思うが、それに加えて、逆に獣以外のものに意識を拡散させていく、というスキルも必要だと感じている。風とか、植生とか、野鳥の様子とか、天候。そういった獣を獲るということに直結しなさそうなことも視野に入れていくこと。これを勝手に「全体視野」と呼ぶことにしている。追わないように追う、というよりも“見ないように見る”という感じ。観察という感覚が一番近いかもしれない。獣を見つけたい、獲りたいという欲はそのまま殺気につながり、結果として発した殺気は獣に察知される。そうなると山のこと、例えば木々や草花の種類や植生、小動物や鳥類、季節の移ろいによる実りの変化、風の動き、などについても深く広く理解している必要がある。それらの理解を深めることは獣以外のことに意識を向けやすくすることにつながるからだ。意識を獣ただ一点に集中させるのではなく、周囲に広がるあらゆることに拡散させて全体を捉える感覚。その感覚の中で獣の痕跡と存在をあぶり出していくような追い方を目指したい。これまでに、偶発的にそんな追い方の感覚に数回触れたことがあったのだけど、それを常態化していきたいと考えている。

昨シーズンの猟期を終えた頃から、古道歩きに同行させてもらうようになった理由の一つにもこのことがある(古道歩きの記事はこちらから→)。一見すると、狩猟に関係ないようにも思えるが、実際に古道歩きに同行させてもらうと、予想した通り、今まで見たこともない角度で山を捉え、意識を向けたこともないモノに触れている自分がいて、それら全てが獣をトラッキングすること、つまり狩猟にも通じていることを確信した。自然の中での営みなのだから考えてみれば当然のことなんだけど、その当たり前が意外と分からなくなるものなんだな、ということも気付かせてもらった。

殺気があると獣を獲れないなんてことは全くなくて、結果は出せると思うのだけど、自分の理想の狩猟にはそれだと辿り着けない。心は凪、ニュートラルな状態にしておく。これが本当に大事。視野という言葉が出たので少し触れておくと、不思議なもので、山の中にいる獣を視覚的な意味で見つけるときでも、目にぐっと力を入れて注視するよりも、少し細目にして、ぼやーっと眺める感じの方が見つけられる。これは間違いないと思われる。なぜかと言うと、景色に同化した獣の軽微な動きは、点ごとに視点を移していくような視野の狭い見方では、全く分からない。むしろ、一点を見つめずに、視野全体に意識が満遍なく広がっている方がその動きを察知できる。アップした動画を観ていたら、久保さん自身も追っている獣からあえて意識を逸らす場面があって、「自然の中で自分は異質であってはならない。いかに自然に溶け込めるか。」という話をされていた。“全体視野”を身につけていくことは、まさに自然に溶け込んでいくプロセスそのものだと感じている。

久保俊治さんの著書「羆撃ち」は、狩猟に携わっている方ならもちろんのこと、そうでない方にもぜひ一読してもらいたい一冊だ。

※Amazonアソシエイトリンクを使用しています。こちらのリンクからご購入いただくと、購入代金の一部が「日々狩りブログ」の収益として還元される仕組みになっています。