先日、長野県天龍村為栗(してぐり)と同県飯田市南信濃を結ぶ古道「谷京(焼尾)峠【やきょうとうげ】」のトレッキングに赴いた。
“古道”というぐらいだから、今はもう使われなくなった昔の通行路であり、
車など文明の利器がなかった時代、コンクリートで舗装・整備された道路もなければトンネルもない。
隣村に行くには山を越えていくほかなく、往来の経由地として谷京峠があった。
今回歩いた古道は谷京峠を経由するルートがいくつかある中でも、
当時の人々が馬を伴って行き交った道だそうだ。
飯田線平岡駅から乗車して、秘境駅と呼ばれる為栗駅で下車。
もちろん無人駅。駅の目の前を天竜川が悠々と流れる。その駅を出てすぐ脇の道から入山して古道に入る。
天竜川の水位が低かった当時は、今は秘境と呼ばれる為栗にも多くの人家があり集落が形成されていたようだ。平岡ダムの建設によって水深と川幅を大きくした天竜川の底に沈み、その形跡さえももう見られない。
今は、おばあちゃんが一人で住む家が山の中にポツンとあるだけだ。
「危険ですから通行しないで下さい」という標識を横目に線路を横断。
なんとなく罪悪感を抱くが、足元をよく見ると複数の獣の足跡。
どうやら彼らは日常的に通行しているようだ。
線路を踏まないように大股で跨いで渡る。
入山してすぐに鹿の“ぴぃっ”という警戒音。
聞こえた音の大きさと方向から察するに、尾根の裏側にいたに違いない。
遠ざかる複数の足音が聞こえたので群れでいたのだろう。
脚を踏み入れて即座のことだったので、かなり低い位置にいたことになる。
今年はシーズン通して気温が高かったから、もっと上にいてもいいだろうに、
よっぽどこちら側の山には人が入らないのだろうか。
少し歩を進めると、鹿の毛らしき束がばさっと落ちていた。
毛の途中で不自然に切られたような状態。自然に抜け落ちたわけではないようだ。
手に取ってみると刃物で切断されたようにも見受けられる。
東の空から昇りはじめた太陽がこちら側の斜面を照らし始めた。
前日の雨でしっとりと濡れた落ち葉から、太陽の熱で湯気がむわっと立ち上り、ゆらめいている。
太陽の光と熱で山の生命が一斉に目を覚ましだしたかのようだ。
日の光が蒸気に乱反射して美しい。
【植生という視点で山を観る】
今回古道歩きをガイドしてくださった平澤さんから、山の植生についても詳しく教えていただいた。
“植物”という切り口で山を読み解く試みを意識的に行うのはおそらく今回が初めて。
今まで見えていなかったものが、今まで気づきもしなかった発見があるに違いないと心が躍る。
冬場でも濃い緑の葉をつけるこの木はアラカシ。
周囲の多くの広葉樹が落葉させ閑散とした雰囲気が漂う中、
青々とした葉を揺らすアラカシなどの常緑樹が視界に入ると途端に風景が賑やかになる。
アラカシは常緑広葉樹で堅果(ドングリ)をつける。
樫の実とも呼ばれ、野生動物たちの糧になる。
果期は秋頃なので、結実の時期は過ぎていたが、地面に落ちている実が見当たらないのは獣たちが熟れて落ちた実を食べたからだろうか。
これはアベマキという落葉高木。シイタケの原木やコルクの素材として使われる。
アラカシ同様、秋ごろに堅果(どんぐり)を実らせる。
調べてみるとコルクの素材として使われる木のようで、幹の表面に触れると内側に空気の層を有しているような感触。まさにコルクだった。
近縁の落葉高木であるクヌギとよく間違われるそうだが、アベマキの葉の裏には繊毛のようなものがあって見た目は白く、触り心地がふわっとしている。そしてクヌギに比べ葉っぱは幅広い。
アベマキは暖地性で、低標高域に分布する木だそうだ。
ところがこのアベマキは本来であれは自生しないはずの標高(写真よりもさらに高い位置にもアベマキがあった)に生えていた。
「実を落としながら上へ上へ、じわりじわりと生息域を広げてきたのではないか」
平澤さんはそう話されていた。
考えてみれば当然のことだが、山は変わっていないようで、実はその姿と性質を刻々と変化させている。
自然は恒久のものではなく、諸行無常の世界だ。日々うつろっている。
ところが“山”という単体で捉えると、山自体の姿形が一日で変わるわけはないので、
“変わらずにそこに在るもの”として見てしまう。
目を凝らさなければ気が付かないほどの小さな変化や、年単位でやっと視覚的に捉えられる変化。
山は多種多様な変化で溢れていることに気付かされる。
にしても、変化に富む世界でありながら、山の中にいても“慌ただしさ”を感じない。
むしろ、心のうちは“ゆったりとした時間感覚”になる。
それはなぜだろうか?
しばらく登って振り返ると眼下に天竜川が見えた。
山間をうねるように流れるコバルトグリーン色の天竜川は、確かに龍のようだ。
上はミズナラの幹、そして下はコナラの幹。
どちらも落葉広葉樹で見た目は酷似しているが、ミズナラの表皮に触れるとポロポロっと皮が剥がれる。対してコナラの表皮はしっかりしており触れるだけで剥がれるということはない。
【古道に生きた人々の暮らし】
ミズナラやコナラは、伐採してもすぐに切り株から沢山の新しい芽を出すそうだ。
“萌芽更新(ほうがこうしん)”という性質で、この性質故に薪や炭の材として重宝された。
一本の木から繰り返し材を切りだせるという意味では当時の再生可能資源であったわけだ。
実際に今回の峠道の道中にも炭焼きの跡があった。 石で囲われた空間に薪を並べ、ドーム型に蓋をして薪釜にする。
ここらの広葉樹を伐採しては炭として加工し、生活の糧としていたのだろう。
道中、不自然な曲がり方をしたミズナラやコナラがあちらこちらに見かけられたが、
材として伐採され、萌芽更新によって新しい芽を出し、そしてまた伐採される。
その繰り返しで生育した結果のフォルムだった。
それにしてもこの炭焼き跡まではけっこうな傾斜と距離だ。
ここを登り歩いて、木を伐採し、炭を焼き、その荷をまた担いで下ろす。
とんでもない重労働だ。
山の木々からこの古道を使っていた人々の暮らしぶりを垣間見ると、
木々が昔と今の何十年という時の空白を脈々と繋ぎとめてくれていたような気がして、なんだか奥ゆかしさとロマンを感じてしまう。
炭焼き跡地からさらに登ると、突如だだっ広い平らな場所が姿を現す。
明らかに人為的に均されたような地形だ。
ここは何に使われていたのか。
なんと、“水田”だったそうだ。
“山”と“水田”という言葉が想起させるイメージが脳内で全く結びつかず、しばらく立ち尽くして目の前に広がる落ち葉の絨毯を見つめてしまう。
通いながら稲を育てたのだろうか。
水はどこから持ってきたのだろうか。
毎日経過を見に通ったのだろうか。
収穫した穂をまた担いで下ろしたのだろうか。
理解不可能な疑問が次々と頭の中に浮かんでくる。
この水田跡から伸びる道があった。
それは古道の続きではなく、沢からこの水田まで水を引いてきていた水路だったそうだ。
水を供給できればひとまず稲作はできそうな気がしてきた。
またこの平地は、夜明けから日没までずっと太陽の日が当たっているらしい。
このあたりの集落は山に囲まれた谷間の底にある。
故に集落の中に広大な面積の平地はなく、日照時間は極端に少ない。
であれば、より太陽光を長く浴びられる位置、つまり山の上に田畑をつくってしまった方が合理的だと当時の人々は考えたのかもしれない。
にしても、それを本当に実践していたのだから驚かされる。
ここまでの道中ですでに発見と学びの連続である。
今までとは全く別の視点から狩猟を捉えていくことで、これまで見えていなかった面、新しい可能性を見つけられそうな気がしていた。
今回の古道歩きに同行させていただいた理由も大きくはそこにある。
やはりその感覚は間違っていなかったと確信する。