ここのところ、
「狩猟という営みにおいて、命をもらうことはあっても、果たして自分は何か与えているのだろうか?」
ということを考えている。
狩猟で肉という糧を得るために、野生動物の命を奪う。
肉を得て、
皮を得て、
骨や角や牙を得る。
一つの命から多くのものを与えられている。
自然界に流れる摂理は“贈与関係”で成り立っているとつくづく感じる。
“与える”という行為を自然界のどの存在も意識しているわけではないだろうけれど、
“そうなっている”という世界が出来上がっている。
それが持続可能であることの所以だろうし、完成された美しさを感じてしまう。
人間は高度な知能を備えて、自然の猛威や脅威に立ち向かう術を身につけてきた。
それは摂理そのものを、自然界の構造自体を組み替えられるものでは決してないのだけど、
“コントロールできる”ような気にはさせてくれる。
“自然の中の一部である”という感覚をどんどん薄めながら、
“独立した存在”、“超越者”たる風格だけが濃くなっていく。
一方で、自然界の摂理や法則を敏感に感じ取るセンスは退化してしまっている気がしてならない(自分も含めて)。
この感覚の喪失は、狩猟においても例外ではないと感じている。
命を“奪う”と“与えられている”という感覚を強烈に、ダイレクトに、感じるたび、
“与える”ことができているのか、という問いが生まれる。
それが自然界への直接的な還元になるのか、
それとも他者への、社会的な意味合いでの贈与で良いのか、
それすらも分からない。
ただ、
「奪い続ける行為は必ず破綻を呼ぶ」
それだけは確信している。
与えることができる狩猟者は在り得るのか。
これから狩猟を続けていく上で、大きなテーマになりそうだ。