“選択できる”ということ【後編】

“選択できる”ということ【後編】

2020年2月15日
考えること。

鶏の解体は、都内で「ル・ジュジュ」というレストランを営まれている鈴木シェフにご指導いただいた。ひね鶏(廃鶏のこと)は皮がかなり固くなっているため、羽毛ごと皮を剥ぐ方法をとった。羽毛を纏った鶏は、やっぱりまだ鶏で、目の前にあるそれは間違いなく息絶えているのだけど、ただ目を閉じているだけのような、またバサバサっと動き出しそうな感覚を抱く。すでに命は尽きているのだけど、依然として生きていたときの“存在感”は有している。鈴木シェフが胸の一部の羽をもぎ、包丁で皮に切れ込みを入れてビーっと皮を剥ぐ。そうすると、羽毛と皮に覆われていた淡いピンク色の下地が顔を出す。視覚的に認識できるほどの弾性を備えたそれは、僕たちがよく食卓で口にする鶏の胸肉だ。それが見えた瞬間に、鶏という“生きもの”から、鶏肉という“食べもの”という概念へと脳内変換される。

“ソリレス”を剥いでいるところ

その後、鈴木シェフが着々と鶏の胴体を部位ごとに切り分けていく。「これが鶏モモ肉で、ここがソリレス。ソリレスとは“残す者は愚か者”という意味で…」という解説を聞いているときには、口の中に涎を含みながら解体を見ていた。完璧に食材として認識する頭に切り替わっている。鶏舎の中を走り回っていたときには紛れもない“生きもの”だ。それが一寸後には“食べもの”になっている。境界線はどこに存在していたのか。いや、正確に言うと命と食の間に境界なんてものはなくて、途切れることのない一連の流れを自分自身が一つ一つの出来事として区切っているだけなのだけど。身体が、頭が、心が、認識の転換を始める点はどこにあったのか。強いて言うならそれは“命が事切れる”その瞬間だったと思う。鼓動は止まり、波打つ脈も感じられず、徐々に体の温もりも消えていく。“生か死か”の二択で言うなら、間違いなく死であるはずなのに、どこかにまだ生の存在を感じてしまうあの瞬間。狭間のようなその時間こそが、命と食の橋渡しのような役割を担っているのではないか。人の世においても、死者を弔い、黄泉の国へと送るまでには一定の猶予が設けられる。通夜やお葬式では、死者にお化粧と装束を纏わせ、「まるで生きているみたい」なんていう言葉を交わす。それも狭間の時間だ。“食べることにおいての生と死”と“弔うという意味での生と死”では性質は全く異なるだろうが、その両極が混在している時間と空間に身を置くという行為は、“死”というものを自分の中に取り込んで受け入れていくという行為でもある。今回で言うならば、自らの手で鶏を絞めるという工程だ。
参加者の誰もが、頸動脈を切り、放血させ、命が尽きるその瞬間まで無言で鶏を見つめていた。その光景はなんだか、目の前に刻一刻と近づく“死”を真正面から受け止めようとしている、そんな印象を受けた。

鶏の皮を剥ぎ、部位に分けると、背骨と肋骨に囲まれた空間にはぎっしりと内臓が詰まっていた。気管支、食道、そのう、心臓、肝臓、脾臓、腎臓、砂肝、胃、腸、卵管。中でも“きんかん”と呼ばれる部位の存在は強烈に印象に残っている。鶏は体内に卵として排卵される前段階の状態のものを平均2~3個有している。黄身のような球体が内臓に包まれるようにしてごろごろっとそこにあった。これが卵管の中をゆっくりと通過しながら、白身、殻と順々に形成され、最終的に見慣れた形の卵として体外に排出される。僕たちはそうして鶏がつくりだしてくれたものを毎日食べている。命の分身をいただいているのだ。絹田さんは「畜産で飼育されている生きものたち(特に牛について言及されていた)は人間が食べられない形質のものを食べられる形にして与えてくれる。それは本当にすごいことです。」と話されていた。卵もまさにそれだ。鶏の生命活動の一部を僕たちはいただいている。神秘だと思った。普段、スーパーで卵を買うときにそんなことは考えもしなかった。実際に鶏を飼育していてもそこまでの考えには至らなかった。もしかすると狩猟をやっていたとしても感じ取れなかった感覚かもしれない。

解体が一通り終わると、お昼ごはんの時間になった。献立は、鈴木シェフが仕込んだ命のスープと卵かけごはん。親田高原で育った鶏たちの卵は、いつもスーパーで目にする卵とは明らかに違っていた。色や形が違うということももちろんあるが、それだけではなく、個性が一つ一つにあるような。並んでいるそれらを“たまご”というひとつのジャンルで括ってしまうのはもったいない気がした。その秘密はたまごかけごはんを食べるときになって知ることができた。

コンコンっと殻にひびを入れごはんの上に卵を落とす。檸檬色に少し白を足したような黄身だった。クリーム色が1番近いかもしれない。見るからに弾力のある白身と、ぷっくりとした膨らみを有した黄身。内側から溢れ出そうなエネルギーを薄い膜でなんとかかんとか留めている感じ。これほどまでに立体的で美しい卵を見たという記憶は過去を探っても出てこない。別の卵を割ると、その卵はまた違う色の黄身だった。オレンジ色が強い。そして黄身は少し小ぶりだったが、その分膨らみ方が強い。それらの視覚的な差異に驚きながら、調味料は何も加えず、卵だけを味わってみる。クリーム色の黄身に箸を入れ、トロッと流れ出てきたものをぺろっと舐める。爽やかな味わいだ。しかし薄いというわけではない。濃いのに、爽やか。そして何故だか遠くに塩分を感じる。ミネラル分のような要素。次はオレンジ色の卵の黄身を舐めてみた。こちらはこっくりと濃い。そして塩分はほとんど感じず、どちらかと言うと甘みが強い。同じ卵でもこれほどまでに違う味わい。絹田さんにそのことについて尋ねてみた。「餌に醤油の搾りかすをあげることもあります。もしかするとその卵(クリーム色の方)を産んだ鶏は好んで醤油かすを食べたのかもしれません。」
この日一日の体験を通してもやもやと自分の中に渦巻いていうた思考と感情が、この言葉ですべて繋がっていく感じがした。

違いがある”ことは選択している証

それが当たり前のことなんだ。鶏舎の中で鶏たちがそれぞれに異なった動きをすること。一羽一羽の性格が違うこと。食べるものの好き嫌いがあること。卵の形質や色が違うこと。味が違うこと。“違いがある”ということはとても自然なことなんだ。「人生は選択の連続である」という言葉をシェイクスピアは残した。“生きる”ということは“選択をしていく”ことと同義だと僕も思う。逆説的にだが、“選択できない”のならば、きっと“生きている”という感覚になれないのではないだろうか。選択できるということは、生きている証であり、自由であることの証でもある。 シェイクスピアはこの言葉を人に向けて発したのだろうけど、命あるもの、鶏たちだって一緒なはずだ。絹田さんは試行錯誤をして、日々研究を重ねて、様々な選択を鶏たち自身ができる環境をつくりあげていた。鶏たちがなるべく自由であれるように、ちゃんと生きられるように。だから鶏たちや卵からあれほど強い生命力を感じたのだ。

イベントの終盤で鈴木シェフが話されていた言葉が頭に残る。「安く、簡単に、どんな食べものでも手に入る世の中になりました。でも、安ければいいのでしょうか?安ければその過程がどんなものであってもいいのでしょうか?この卵ひとつには絹田さん一家の努力とドラマが詰まっています。命や鶏たちに対する尊敬の想いが詰まっています。その卵を買う、ということ。それに対してお金を払う、ということ。それはその人を応援するということなんです。その輪が大きくなればきっと世の中も変わってくるはずです。」
消費者として、買うものを選ぶことができる。人として、進む道を選ぶことができる。日々の行動を、生き方を、僕たちは選ぶことができる。ただ目の前にあるものを享受するのではなく、自らの五感で触れ、感じ、考えて、選ぶことができる。

この記事を書きながら、自分で捌いた鶏を煮込んで命のスープをコトコトと仕込んでいる。漂ってくる美味しそうな香りがなんとも言えない温かい気持ちにさせてくれる。その正体はきっと絹田さんご一家や、鈴木シェフや、鶏たちへの“ありがとう”という込み上げる思いだ。“つながりが生む心地良さ”を感じさせてくれるものを選じ取って行こう。