”選択できる”ということ【前編】

”選択できる”ということ【前編】

2020年2月13日
考えること。

長野県下条村で「親田高原のたまご屋さん」を営んでいる畜産農家の絹田さんを訪ねた。
周囲は果樹園に囲まれた見晴らしの良い高原で絹田さんご一家は生活されていて、主に採卵鶏の養鶏を営まれている。一般の方の参加を募り、廃鶏にする鶏を“自らの手で屠畜し捌く”というワークショップを毎年行われていて、それに参加させていただいた。
自宅でも採卵用の鶏を5羽飼育していて、たまご屋さんの飼育方法にそもそも関心があった、ということと、今回参加した屠畜ワークショップの講師を務められていた絹田さんの考え方や向き合い方にはそれ以上に関心があった。

狩猟をやっている身であるから、“命をいただきそれを食とする”というプロセスには、多くの人よりは濃く関わっているとは思う。相手にするのは野を駆け回る野生動物。舞台は野山。生きているモノを食べるモノにするという流れ自体は狩猟も畜産も同一であるが、唯一違う点は、生きているモノたち(狩猟では鹿や猪、畜産だと鶏や牛や豚)が暮らす環境を担保するのが、“人”なのか“自然”なのかということだ。
その意味でいくと、畜産は狩猟以上に人の関わる要素が大きいわけであるから、携わる人の姿勢やエネルギーは生きているモノたちにダイレクトで現れる。
“あのたまご屋さんの卵や鶏たちはなにやらすごい”というお話は以前から聞いていたので、絹田さんや鶏たちに実際に会うことが出来るのがなによりも楽しみだった。

イベントは参加者や主催者の自己紹介から始まり、早速たまご屋さんとしての核心部分に関わってくるお話がスタートした。まずは鶏たちを“平飼い”しているということ。フラットな仕切りのない広いスペースで鶏たちは自由に動き回ることが出来る。右を向いてもいいし、左を向いてもいいし、前に進んでもいいし、後ろに進んでもいい。はたまた止まり木に乗りたいのなら翼を広げてバサバサっと飛んだっていい。卵を産みたくなったら産卵箱に入って、安心できる暗がりでゆっくり卵を産むこともできる。対して今現在でも多くの養鶏は“ケージ飼い”だそうだ。40~60㎝四方のケージに雌鶏が2羽入れられる。この2羽は右も左も後ろも自分の思うように向くことはできない。自分の体の向きを変えることさえ満足にはできない鶏小屋の中で一生を過ごす。そんな話を聞いているとき、どうしたってその2羽の鶏を自分に置き換えて考えてしまう。とても“生きている”なんていう心地にはならないだろう。いっそのこと死なせてくれた方が楽かもしれない。“何の恨みがあってそんな一生を強要されなければならないのか”という憤りのような、哀しみのような、虚しさのような感情が込み上げた。

鶏たちの餌についてもお話をしていただいた。配合飼料は与えず、草木が元気よく生える時期には刈った雑草を豊富に与え、それと並行して冬期の間(草木が枯れてしまう期間)に与える飼料の準備をする。写真に写っている自家製飼料は5種類だが、それぞれに何種類もの穀物や野草がブレンドされていた。そして共通して “発酵”させている飼料が多かった。発酵食材が腸内環境を整え、健康に寄与するという事実は周知のことだろう。特に日本人は発酵食を日常的に口にしている。味噌や納豆やお醤油だってそうだ。何種類もの自家製飼料に加え、それらが“発酵”しているとなると、それらの総合的な栄養価と、そして鶏たちの健康面にいかほどの効果を発揮しているか、ということは計り知れない。とにかく“ここのたまご屋さんの鶏たちの食事はバラエティーに富んでいる”ということは間違いない。食べものには元素記号で表記できるような科学的な栄養素以外の重要な要素がある、と個人的には確信している。発酵という現象はその最たるものだ。単純なカロリー計算による体内での熱量発生率では計算しきれないことの方が圧倒的に大部分だと思う。それはきっと鶏たちに置き換えても一緒のことだろう。

話は前後してしまうが、“養鶏に雄鶏の存在は必要か否か”という話も非常に興味深かった。鶏は雌鶏だけでも産卵はする。採卵としての効率的な養鶏という視点に立つと、卵を産んでくれるのならそれでいいわけだから雄鶏の存在価値は特にない。雄鶏を入れている分だけ、飼育面積は必要になるし、雄鶏分のコストは発生するわけだから、むしろ入れない方がいい、という結論になる。ここでも例にもれず自分と置き換えて考えてしまって、男性としては少し複雑な気持ちになった。しかしオーナーさんの考え方は違っていた。雄鶏を入れない場合と、入れた場合の雌鶏の状態。入れなかったときは雌鶏たちの気性が荒くなった。反対に雄鶏を入れると雌鶏たちの気性は穏やかになった。つまり“雄鶏”という存在が雌鶏たちの精神状態に何らかの良い影響を与えているということになる。気性が荒くなるということは、雄鶏が存在しない環境に対して“ストレス”を感じているということだ。その精神状態は雌鶏たちの健康状態にも当然影響を及ぼすはずだし、それは引いては産卵する卵の質にも関わってくる。養鶏の“効率”よりも雄鶏という存在の“効果”を考えるべきだと絹田さんはそこから感じ取ったのではないだろうか。

鶏舎の敷材として広葉樹の木片チップ(チェーンソーで木を伐採した際に出るような木屑)を敷いている、という話をイベント冒頭のお話で聞いていた。敷き詰められた木片チップや餌のクズ、そして鶏たちの糞尿が混ざり合い発酵することで、いわゆる“鶏舎臭”のような悪臭は全くない、ということだった。鶏たちが脚で地面を蹴って穴を掘る習性も発酵促進に一役買っているそうだ。たしかに家で飼育している鶏たちも、よくその動きをしている。そして実際に生後2年10ヵ月の廃鶏となる鶏たちが生活する鶏舎に入れさせていただいた。くさいの“く”の字もないほど、悪臭とは程遠い空間だった。むしろ清々しさすら感じたぐらいだ。なんだか安堵感を覚える、落ち着くにおい。その感じ方には個人差があるだろうが、山の中で時折感じるそれと一緒だったと思う。そして何より、廃鶏と呼ばれるその鶏たちから感じたのは有り余る生命力。“廃鶏”という言葉がどうしても気力を無くした老いた鶏を連想させるが、そんな様子は微塵もない。
「この中から一人一羽お好きな鶏を選んでつかまえてください」という絹田さんの言葉を合図に、参加者それぞれが限られた空間の中で鶏たちを追いかけるのだが、まぁ走る走る。そして俊敏な動き。狩猟で鍛えた瞬発力?が功を奏したのか、僕はさっとつかまえることができたが、他の方は割と苦戦されていた。「一体あなたたちのどこが廃鶏なのですか?」と心の中で呟く。“廃”とつけるのが失礼な気がしてしまう。採卵から卒業した鶏たちということでOB・OGならぬ「OC(Old Chicken)」と呼んだらどうだろうか、とくだらないことを考えていた。

選んだ鶏を抱え、屠畜場に移動する。単菅で組まれたはざかけにビニールロープが結ばれていて、そのロープに鶏の両足を括って吊り下げる。括られるときに大人しくしている子もいれば、翼をバタバタッとはばたかせククッと鳴く子もいた。締めるやり方にも色々な方法がある。以前に、飼育していた合鴨を締めたことがあるが、そのときは首を捻って頸骨を折り、そのまま首を落とした。脇に鴨の胴体を抱えて、片手で首を捻る行為はなかなかに難しくて、さらに首を落とすのも女性ならば力をぐっと入れないと切断できない。今回は1人が吊るした鶏の胴体を抱え、もう一人が頭部(人差し指で頭骨の後部を、親指で下側の嘴の先)を持ち、伸ばした首の頸動脈を刃物で切る、という手法だった。吊るされた状態でいることで、頭部方向に血が偏り、放血もしやすい。こういう言い方が適切なのか分からないが、非常にスマートなやり方だと感じた。狩猟をやっていると、例えば罠の止め刺しなら、“どこを刃物で傷つければ苦しまずに絶命させ放血もスムーズにできるか”とか、銃猟なら“いかに急所に一発で的中させるか”ということを常に考える。より苦しませず(どこまで行っても自分感覚ではあるけど)、かつ可食部位を傷つけずに、という技術を磨こうとする。それは命を扱うには知識と経験と技術が必要不可欠であることを身に染みて知っているからだ。故に今回の屠畜のやり方は非常に学びになった。命をいただくことへの“ありがとう”と、学びを与えてくれたことへの“ありがとう”。二重の感謝の想いを抱いて、ナイフを持つ手を動かした。

(選択できるということ【後編】へ続く)