渓流釣り

渓流釣り

2020年6月1日
狩りのこと。

前日からの雨が今朝方には上がった。

自宅前を流れる本流の川を見ると、増水も濁りも程よい感じだ。

とは言え、まだ雲行きは怪しく、再び降り出しそうではあるが、土砂降りの雨ということはないだろうと踏んで少し車を走らせ支流に向かった。

昨日は、準備を済ませ「いざ」というところで雨に降られてしまった。

今日こそは。

4月中旬あたりの陽気が春めくあたりから、渓流釣りのシーズンに入る。

同地域に暮らしている友人たちとの会話の中にも、

「あの川に今年アタックしたい」

「あそこの深みにはやっぱり大物いたよ」

なんていう情報が飛び交う。

急に友人たちは釣り人の顔になる。

日常会話の変化に、

人の表情の変化に、

季節の移ろいを感じる。

例にもれずぼくも、今シーズンから渓流釣りルアーフィッシングに手を出すことにした。

今まではテンカラ釣りにトライしていたのだけど、それほどのめり込むこともなく時間だけが過ぎた。

釣りは好きだ。

特に小学生、中学生の頃に最も釣りに没頭していたと思う。

夏休みには釣具店に自転車で向かい、多くないお小遣いでなんとか買いそろえた道具を携えて、
ペダルを漕いで回れる圏内の川や池で糸を垂らした。

子どもが自力でたどり着ける範囲のフィールドだから(加えて市街地の片田舎であったし)、
釣果に上がるものなんて、大したものではなかったけれども。

何故かそんなことを急に思い出して、釣りに対する欲求が沸々と湧いてきた。

ましてや今いる環境は、車で5分のところにアマゴやイワナが生息する渓流が流れている。

子どもの頃に、「いつか行きたいな」と夢想した渓流釣り。

結局、渓流釣りを経験することなく、当時の釣りに対する熱は冷めてしまったが、
もしそのときに体験していたら、その後のぼくの人生を変えるぐらいの要素になっていたのかも。

今、狩猟が一つの軸になっているわけだから、あり得ない話ではない。

それぐらい、当時は釣りバカだったと思う。

ルアーフィッシングで使う道具には、大別すると、

ロッド、リール、ライン、ルアーの4つがある。

これまでやってきたテンカラ釣りと大きく違うのは、
リールを使うということ。

ロッドの弾性を利用してルアーを目的のポイントにキャスティングするときに、
人差し指でリールから出ていくラインを調節するのだけど、これが全然上手くいかない。

「フェザリング」という動作らしい。

投げ込みたいポイントによって、シチュエーションはまったく異なる。

流れは急か、緩やかか。

岩の手前に落とすのか、それとも奥か。

開けた場所か、枝木が茂った場所か。

そのシチュエーションごとに、適したキャスティング、ライン、巻き速度(超初心者の自分がひとまず感じたポイントはくれぐらいだけどまだまだ沢山留意すべき点があるはず)があって、そのひとつひとつがままならない。

忘れていた。

フェザリングもそうだけど、キャスティング(ルアーを投げ込む動作)がそもそも難しい。

なかなかひとところに定まらない。

動作ひとつとっても、

「これをああしてこうして」といちいち確かめながらやっている自分がなんだか滑稽だ。

友人たちは、考えることもなく、まさに感じるように、
道具を扱っている。体の一部のように。

そういった所作はとにかく美しい。無駄がない。

支流のスタート地点にほど近いところから、魚がいそうな(もちろんビギナーの推察である)ポイントに投げ込んではリールを巻くという反復を繰り返しながら遡上していく。

キャスティング、フェザリング、リトリーブの回数を重ねるうち、
頭に余裕ができてくる。

脳を動作にフル集中させていた状態から、身体が動作を記憶したことによってほんの少しだけ反射に切り替わる。

「ちょっと竿先を動かしながら巻いてみよう」

という遊び心が生まれる。

水面のすぐ下でキラッと銀色に何かが輝いた。

「ん?」

もう一投する。

川の落ち込み、少し深みになった白泡の中からルアー目掛けて飛んでくるように、魚影が現れた。

直後、ロッドにくっとかかる重み。

「食った!」

巻き上げ、引き寄せると、20㎝弱程度のアマゴだった。きっと放流魚だ。

それでも、ルアーフィッシングでは初釣果。素直に嬉しい。

早速友人に報告すると、

「雨でプレッシャーがリセットされたからかもね」

とメッセージ。

ビギナーズラックと捉えて、精進しよう。