狩猟から学んだ命と食の関係性

狩猟から学んだ命と食の関係性
2019年7月31日
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もともとは「食」が出発点となり興味を持ち始めた狩猟の世界。

実際に狩猟を始めて気付いた「命と食の関係性」について思いつくままに書いてみます。

今回の記事は明確な答えを出すものではなく、

あくまで「私はこう考えている」という内容です。

倫理や哲学のように、「永遠に絶対的な答えの出しようのない問い」ですので、興味のある方は覗いてみてください。

命とは何か

そもそも「命」とは何なのか。

命とは生きていることの証。「死」とは対極にあるもの。

一般的にはそのように生物に対して使う言葉でしょう。

一方で、「○○に命が宿る」というようにモノに対しても使います。

その共通項は何だろうかと考えてみると、「有機的」であることではないかと思います。

「動物・植物」という生物はもちろんのこと、物質であってもそこに何らかのシンパシーを感じさせる有機的なもの(よく使われる表現は「魂」とかでしょうか?それを生み出す人、扱う人の人生や熱量が乗っかった状態ですね)が付随すると「命」が存在する領域として扱われる。

狩猟の対象になるのは野生動物。

有機的な存在であることは間違いなく、狩猟においては「命」を扱っているということは揺るがなさそうです。

食とは何か

「命」の定義よりも実は「食」の定義の方が複雑だと思っています。

おそらく「命」や「生命」ほど概念のまとまりがないのです。

というのも、それは人の都合(住んでいる国、文化、伝統、時代など)によって大きく左右されるからです。

とはいえ、一般的な食の土台とは「食べるもの」「食べること」であることは間違いないはずです。

物質としての食べるモノ。行為としての食べること。

それらをひっくるめて「食」なのではないかと。

命と食の間の線引き

ではどこからが「命」でどこからが「食」なのか。

命と食の間の線引きはどこでなされるのか。

先に私の結論を言ってしまうと、その線引きは「存在しない」です。

狩猟を始める以前は、命と食は明確に区別していました。

食べられる状態のものは「食」、その原型で食べられる状態でないものは「命」。

ですが、狩猟に興味を持ち始めたきっかけである一羽の鳩の解体。

そのときには命と食の線引きが曖昧で、「かわいそう、残酷だ」という命に対して抱く感情が、グラデーションのようにいつのまにか気が付いたら「美味しそう」に変っていた。

今までの捉え方が一変した瞬間でした。

命と食の境界がなくなり交じり合うような、そんな感覚でした。

言い換えれば、点と点が線でつながる感覚でしょうか。

このときから「命と食」が一つの大きなテーマとして自分の中心にあるわけです。

それから念願かなって狩猟を始めると、さらにその捉え方は変容しました。

極端に言うと、

今では鹿や猪などの命としての個体を見ても「美味しそう」と感じてしまいます。

これは正直なところ、予想とは逆の変化で、実は狩猟を始めたら肉が食べられなくなるかも…と考えていました。

つまり「残酷だ。かわいそう。」という感情が強くなる、と。

そうならなかった大きな理由として挙げられるのは、
「自分で獲った獲物は捌いて食べる」ということを常にしているからだと考えています。

「獲って、捌いて、食べる」から得られるもの

「捌く」ことは、命であったものを食に変えていくプロセスです。

つまり、命と食という点を線でつないでいく工程。

【姿形が原型の状態】

【皮を剥いだ状態(鳥類ならこの時点で美味しそうとなる人も多い)】

【枝肉の状態(生ハムはこの形)】

【ブロック肉の状態】

【市販のパッキングされた精肉の状態】

と、いうように。

鳩を捌いたときに「つながる」感覚になったのも納得がいきました。

ですから、獲物を目視した時点ですでにお肉になった状態に脳内変換されているのだと思います。
個体の大きさや、状態、オスorメスなどの情報から判断するのです。
これは「獲る→捌く」の経験を重ねることで、分かるようになります。

食べものもまた命である

手間暇をかけて、動物の原型の状態から肉していくこと。

そうすると、その結果である肉はもはやただのモノではありません。

それは、狩猟という手段で知恵と体力を駆使して獣を獲り、解体という技術でお肉にする、というとてつもない労力の集積です(「獲って、捌いて、食べる」という行為がどれほどの体力と神経を必要とするのかはやってみないと分からない、としか言いようがないのです)。

自らの手間と時間を賭したお肉には、そこまでのストーリーが乗っかているわけです。

これはまさに冒頭で述べた「魂が宿る」ということなのではないでしょうか。

そこにはその人の熱量が注がれているんです。

私は基本的に「食べものはすべて命である」と考えています。

食べものになるまでには必ずそこに関わった人の「手間暇」がかかっているわけですから。

問題はそのプロセス(結果につながる線)が見えづらい世の中になっている、ということでしょうか。まぁこれはまた長い話になりそうですので、また今度。

命と食は同じ点である

まとまりのない話をつらつら書いてきましたが、

現時点での私の中での捉え方は、

「命と食は同じ点である」

ということです。

分かりにくい表現をしていますが、

それぞれ別のポイントに位置している要素だと思っていたものは、実は同じ点であった、ということです。

それを分け隔てていたものは、自分自身の思い込みにすぎなかったと。

本当に明確な答えの出ない内容になってしまいましたが、

最後に一つ伝えておきたいことは、

猟師さんからお肉をもらうことがあればそこには大変な手間暇がかかっているはずなので、感謝の気持ちを伝えてあげてください。