養鶏記録6~第一期終了~

養鶏記録6~第一期終了~

2020年3月3日
食べること。

養鶏が唐突に終わりを告げた。

餌を持って小屋に近づいていくと、いつもは翼を羽ばたかせ要求する鶏たちがやけにおとなしい。

“おかしいな”と思いつつも小屋に近づいて扉を開けると、
5羽の鶏たちがすべて横たわっている。

首元を噛まれた痕や、頭部を丸ごともがれてしまった鶏もいて、
“やられてしまった”と瞬間的に悟った。

辺りに散乱した鶏たちの羽や羽毛が、
狭い小屋の中で逃げ場なく暴れる姿を想像させる。

自宅で鶏を飼っていて小動物にやられてしまったというケースは友人から聞いてはいたけど、
これまで何の予兆もなかったから“大丈夫だろう”と高を括っていた。

正直、相当油断していた。

突然の出来事に驚いてしまったのと、鶏たちに苦しい思いをさせてしまった申し訳なさに、
しばらく立ち尽くしてしまう。

やっぱり、可愛がっていただけにけっこう悲しい。

それとタマゴを自給できなくなってしまったことはつらい。

卵肉兼用種の鶏であったから、
お肉として食べる楽しみもかなりあった。

「どんな味わいになるだろうか?」

「〆るときは、こんな料理にしてみよう」

とかいろいろ考えを巡らせたりしていた。

飼育を始める目的が“食べる”ことにあったから、

飼いはじめて生まれた“情”と、食べることへの“期待”とが混ざり合った不思議な感情だ。

畜産に携わっている人たちはこういう感覚を持っているんだろうか?

“愛情”と“食べる”行為には深い関係性がある気がした。

食べることは、その対象物と“同化”することであるし、
カニバリズムの意味や世界に全く興味はないけど、
究極的な“愛情表現”の行きつく先は“食べる(=同化)”というのもあり得る話だ。


結局原因を探ってみると、小屋の天井のわずかな隙間から小動物(テンかイタチかハクビシンか。何かまでは判断できず。)が入ってしまったようだ。

肉を食べられた形跡はなく、ただ殺されていた。

糧として命を奪ったわけではないようだ。

小動物が鶏たちを殺した真意は何なのか分からないが、
鶏を譲って下さった方にこの話をしたらこう返ってきた。

「病気や餓死でもない今回の死は“自然の摂理”の中に、人が動物の一員として混ざっている本来の姿」

“飼育”と“自然”は相反する性質である部分が多いが、
少しでも自然に近づけるようにと試行錯誤をしてきた。

終わってみればまだまだだったわけだけど、第一期の養鶏から学ばせてもらったことは本当に多かった。

鶏たちに感謝。第二期に向けて準備を進めよう。