単独単犬での猟に挑む意味

単独単犬での猟に挑む意味
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今猟期から単独単犬で猪を獲ることを目標に修行を開始しました。

猟犬を飼いはじめたときから、
猟犬を使った狩猟として自分はどんなスタイルがやりたいのだろうかと、
ぼんやりと考えていました。

その中である程度、気持ちと考えがまとまり、
単独単犬での猟ができるようになりたいと思い立ったわけですが…

今一度、何故「単独単犬」なのかを自分なりに考えて深堀りしてみましたので、
今回はそのあたりのことをつらつらと書いていきます。

理由①:猪を狙って獲りたい

一つ目はこれです。

猟期にはグループでの巻き狩りにも参加させてもらっているのですが、
そのときには基本的に勢子の方が持つ洋犬を使っています。

洋犬は薄い残臭でも嗅ぎ分けて(本当に鼻が良いのです)、獣が遠くにいても追い立ててくれます。

猟犬に追われて追われて山を下りてきた獣を、

タツマ(獣が出てくるポイントで待ち伏せて鉄砲で仕留める役)が撃ちます。

最初の段階で、見切り(猟をするエリアにどんな獣がいるか)で見当をつけたあと、猟犬を山に入れて放すのですが、猟犬は匂いの濃い方へと行く習性があるので、最初に鹿を狙って放しても、途中で猪に当たれば猪を追い出す、ということもあります。その逆もまたしかり。

洋犬は何キロもの距離を獣を追って走り続ける体力と持久力を持っているので、
洋犬と一緒に山を歩いて獣を追うのは至難の業です。

ですので、洋犬を使った巻き狩りでは犬を放したら、あとは山の中のタツマや山の下のタツマで待ちます。

何が出てくるかはお楽しみという面白さがあります。

裏を返せば、その間のプロセスにおいては犬と一緒に獣にアプローチするという工程はないので、ピンポイントで狙った獣を獲るというやり方には不向きです(やり方によってできなくはないですが)。

そんな中で、猟犬と山を共に歩いて狙って猪を獲ってみたいなぁという気持ちも沸々と湧いていました。

そんなタイミングで日本犬をもらってきたので、

「お、これは…」

と感じたわけです。

理由②:寝屋撃ちで獲りたい

これは三重の猟師さんを訪ねて、お話を伺ったことが大きなきっかけです。

犬と共に山を歩き、猪のいるポイントを狙い定め、寝屋で仕留める、という過程にあるストーリー性に素直に惹かれました。

猟犬との信頼関係がないと成立しないこの猟法。

今まで知っていた、猟犬を使った狩猟の常識が覆される瞬間でもありました。

単独単犬でやろうとほぼ意思が固まっていたのもこのときだったと思います。

理由③:単独単犬猟に自己を重ねている

これはぼんやりと考えながら徐々に深堀りしてみると見えてきたことですが、
単独単犬猟に現在の自分を投影しているんだ、と気がつきました。

人生における、「こういうことをやりたい」「こういう生き方がしたい」という自己実現。

私にもそれがあります。

このブログを始めたのも、YouTubeで日々狩りチャンネルを開設したのも、それを達成したいからです。

その道のりは長く、そして、おそらくいばらの道。

試行錯誤を繰り返し、思考を巡らせ、時には直観に従い、そして今目の前にあることを着実にこなす。その日々を積み重ねるしか、方法はありません。

その状況というのは、単独単犬猟においても同じなんです。

やろうとしていることが、容易に達せられるものではないことは分かっています。

そして単独単犬猟を成功させるために必要なことは、
自分の頭で考え、実践し、失敗し、そこから学び、トライする。
その繰り返しの先にしかありません。

つまり何が言いたいかというと、

「単独単犬猟の成功」は、「自分のやりたいことを実現できることの実証」である、ということです。

双方とも方法論は同じ。形と規模が違うだけ。

規模が大きくなるほど、何をしたらいいのかわからなくなりそうですが、
やるべきことは、逆算して今何をすべきかまで落とし込み、目の前にあることをこなす、というシンプルなものなんです。

時間と労力がかかる目標は、道のりが長く不安になりますが、
最適な努力をしていれば必ず達成できます。

かく言う自分も、時折、不安に駆られることはあります。

ですが、狩猟において単独単犬猟を成功させることができれば、
それは自分自身の目標に対するアプローチの仕方は間違っていないというこの証明になります。

その成功&失敗体験は絶対的な自信と推進力になります。

実現したいことに向かって進む今の自分の中にある希望と不安。

それらを「単独単犬猟で猪を獲る」という狩猟における目標にも投影しているのだなと、
初めて気がつきました。

まぁ口で言うことは簡単なので、行動で示します。

単独単犬で猪を獲る動画が上がる日を楽しみにしていてください。

その瞬間は自分にとっては、殊更に喜びを感じる瞬間であるはずです。