日々狩り旅【三重編】①

日々狩り旅【三重編】①

2019年10月9日
狩りのこと。

一口に「狩猟」と言っても、
その取り組み方やスタイルは十人十色。

全国にいる猟師さんがどんな狩猟をやられていて、
どんな思いを持って向き合っているのか。

そんなところに触れたいという思いが強まる中、
今回、とあるご縁から三重で狩猟をやられている方のところにお邪魔してきました。
そこでの体験やお話の数々に身も心も揺さぶられていて(とても良い意味で)、
まだ上手く言語化できないかもしれませんが、思考を整理する意味でも今回の旅での経験について書き留めておこうと思います。

今回のように、「狩猟」にまつわる旅を「日々狩り旅」と題して、
投稿していこうと考えてますのでよろしくお願いします。

山と川と海

三重県松阪市。
海にもほど近く、周囲は山々に囲まれ、多くの川も流れている。
そんな環境の中に今回お世話になる猟師さん(以降Sさん)のお宅はありました。

立派な日本家屋
そうめんとイノシシのモツ煮
モツ煮そうめん

到着するなり、挨拶も早々に「まぁ腹ごしらえしよや」と昼食をご馳走になりました。そこにSさんにつなげてくださった方や、Sさんのお仲間の人たちがくつろいでいるところでした。

まぁこのモツ煮が美味いのなんの…
今まで食べたモツ煮で、というよりもモツ(豚・イノシシ)の中でダントツで美味しかったです。

縁側がいい雰囲気
この中には…

自宅の前には山から流れてくる小川から水が引いてあって、
その貯水槽には何やら大きな容れものが浸かっていました。

奥にはモズクガニ、手前にはスッポンが生きたまま入っていました。

近くの川で獲ってきたそうです。
ちなみにこの日の夜にスッポン鍋、
翌日にはモズクガニをいただきした。

どちらも本当に美味しかった。
詳しくは次の投稿で書きます。

鮎獲り

昼食をいただいたあと、
「鮎を獲りにいく」というので、ご一緒させてもらうことに。

ここから車を1時間ほど走らせたポイントだそうです。

寄り道

途中に寄り道して川をのぞき込むと…

早速鮎の群れを発見。どこにいるか分かりますか?

すかさず投網。
残念ながら逃げられましたが、「これはお遊び」とのこと。
目指しているポイントにはこの魚群の10倍ほどの鮎がいるそうです。

そしてさらに車を走らせること20分ほど。

到着したポイントは汽水域(河口付近の淡水と海水が混ざり合っているエリア)の川。
のぞき込んでみると、確かに魚(鮎の他にもカワムツやボラの稚魚がたくさん)がかなりいます。

川の流れこんでいる先はもう海。
そしてなだらかな稜線の山々。
本当に素晴らしい環境だなぁと感じます。

まずは川を塞ぐような形で網の壁を張ります。
これでこの網を境に、魚が川の上下流へ行き来することは制限されます。

この網はかけっぱなしのまま、
上流へ様子を見に行きました。

多分この網は、
魚の行動範囲を制限する意味と、驚いて勢いよく逃げ出した魚が掛かっていればいいかな、ぐらいの役目なんだと思います。

少し上流に行くと川幅が狭まり、
淵のような水のたまりがちらほら。
そこに狙いの鮎がたくさんいました。

そこにさきほどの網の壁に用いた網をさらに狭いエリアの中で鮎の魚群を囲うように仕掛けます。
もうこの距離だと、鮎がどれくらいいるかもはっきり分かります。

Sさんや仲間の方々が、

「おい!そっち行ってぼいだしてぇや(追い出すということ)」

「あかん!逃げられたわ…!ちくしょう。」


なんていう会話をしていて。
そんな光景が妙に懐かしく、自分の少年時代とリンクしました。

網に掛かった魚

ある程度時間が経ってから網を引き揚げました。
引き揚げた網には鮎やカワムツなどの魚が掛かっていました。

小さいころ祖父に連れられて、
実家近くの川に投網に何回か言ったことがあります。
それもこんな感じだったなぁと思い出されました。

この日の釣果はこちら。
「けっこう獲れた!」と思いましたが、
Sさんたちからすると、全然獲れていないそう。

「久々の大不漁や…」と話していました。

いつもは一体どれだけ獲れているんだ…

Sさんたちが「ひっかけ」と呼んでいたこの道具。
先端に付いた釣り針(驚いたことにカエシがない)に魚を引っ掛けて獲るのだそう。
もちろん銛を使うように手で持って引っ掛けるわけです。
もとは紀州の方で用いられている道具で、
これは自分で作ったそうです。

構造を詳しく聞いたら、
とれもシンプルなつくりだったので自作できそう。
チャレンジしてみようと思います。

「夢中」と「無駄」

鮎獲りはこれから日が暮れ始めるな、という時間までやっていました。

Sさんの仲間の方の、

「そこに鮎がおったらとりあえず網投げるやろ」

という言葉が印象的に頭に残っています。

気が付いたら、鮎獲りに一緒になって夢中になっていました。
まるで時間が経つのも忘れて遊ぶ少年のように。

生きる年数を重ねると、それなりに経験も重ね、さまざまな常識も身につけ、思考はより高度(?)に、複雑になっていきます。
それは良いようでもあり悪いようでもある。

考えなくもいいようなことをあれこれと考えることもあります。

鮎獲りを一緒にやらせてもらいながら、
余計な思考は置き去りにして、「夢中」になっていく自分を感じていました。

ただ、そのことだけに、集中する。

とてもシンプルなそのことが、
なかなかできなくなってくる。

忘れそうになる。

意識してこれをやるのはそれはまた違うようにも思えますが、
そうなれる時間と、その時間は夢中になれる何かと、それを受け入れられる心の余裕と、そういったことを敏感に感じ取れる感覚、は持ち合わせていたいと感じました。

狩猟をやっていることの意味として、
この要素はかなりある、ということを認識しました。

カワムツはポイっとよけられて捨てました。
理由を聞くと「美味しくないから」と。

「ほいでもこれは鳥が来て食べてくからあいつらのごはんになるやろ」

なるほど。
ここでもまた一つ気づきがありました。

「捨てる」という行為は「無駄にしていること」の象徴のようにも思えます。

ですが改めて考えてみます。
「無駄であること」「無駄でないこと」
この基準って何だろうか?と。

「行為」という単体で判断するのではなく、
その前後のつながり、連鎖の中で相対的にみること。

人間の尺度の範囲内だけで捉えないこと。
自然という大きな枠組み中の一部として捉えること。

例えば、狩猟で獣をとったときのことを考えてみます。

大きな鹿を獲る。

捌くときに出した内臓物を捨てることは無駄なのか。
それを山に戻したなら?
小動物や鳥や、その後は虫や微生物の糧になります。

食べきれないお肉もそうでしょう。

「命」を個体だけの量的物質として見るのではなく、
自然のエネルギー循環の一部として、その循環から外れないように配慮することが「無駄にしないこと」なのだという気がします。

なにも、すべて人が消費しなければいけないことではないはずです。
自然からの恵みであるならば、
その一部をいただいて、あとは自然に帰す。

そういう気持ちが前提にある行為をしていきたいと強く感じた瞬間でした。