私は割と何でもよく食べます。
それは「好き嫌いがない」という意味でなくて、
一般的に「食べもの」として認識されていないものでも積極的に食べる、という意味です。
その始まりを辿ると、幼稚園児時代にまで遡ります。
※今日は狩猟とはほとんど関係のない話をつらつらと書いていきますのでご了承ください。
アリ編
当時からどちらかというとひょうきんな性格をしていて、
友達を笑わせたり、楽しませたりすることが好きでした。
その日も、数人の友達と砂場で遊んでいました。
その砂場を囲っているコンクリートの低い塀の隙間からアリの行列が伸びてきていました。
その行列を砂で遮ってみたり、アリを踏んづけたりしていましたが(子供って残酷ですよね。純粋が故になんですが…)、そのうち友達の一人がこう言いました。
「アリって食べられんのかな?」
他の友達は、え~食べられないよとか言っていましたが、
当時の私はおもむろにアリを一匹指で摘まんで口にひょいっと入れました。
一緒にいた友達は目を丸くしてこちらを見ていました。
「うわっ食べたの!?」
まさか本当に食べるとは思っていなかったのだと思います。
「どんな味!?どんな味する!?」
友達たちは興味津々で聞いてきます。
人生で初めて食べたアリは、控えめに言ってもふつうに「美味しかった」のです。
甘酸っぱい味で、野イチゴのような酸味と甘み。
生きたまま食べたので食感は虫のそれでしたが。
アリの味をしめた(?)私は、その後もアリを見かけるとひょいっと摘まんで食べていました。おやつを食べるような感覚で。
アリを食べたときの、というか食べようとしたときの心境はというと、
ひとつは、友達の「ふつうに考えて食べられないでしょ」というその絶対常識みたいなものを覆して驚かせてやろうという気持ち。
もうひとつは、「アリってどんな味するんだろ?」という好奇心。
そのふたつだったと記憶しています。
それから数年した頃、とあるテレビ番組の中でアフリカの民族に密着する映像が流れていて、狩猟採集の休憩時に木をほじくってアリをすごい勢いで食べていて。
現地の人たちは「スナック菓子」感覚でアリを食べていたんですよね。
それを見たときに、
「あ~ほら。やっぱりふつうにアリ食べてる人たちいるじゃん。」
と妙に納得できた自分がいました。
キリギリス編
先日の日々狩り旅で(日々狩り旅【三重編】①)、
キャンプの最中、灯に誘われて飛んできたキリギリスを捕まえると、
三重の猟師さんから、
「それ(キリギリス)食べたことある?美味いんやで。」
と言われました。
もちろんキリギリスは食べたことがありません。
「どう食べるんですか?」そう聞くと、
キリギリスを手に取って、炭火で炙って渡されました。
「エビの味がするんよ。食べてみ?」
口に入れると、本当にエビの味がしました。というか食感もパリパリしていて、
もはやそれはエビでした。
その猟師さんは夏の時期に、「フェモラータオオモモブトハムシ」という虫の幼虫を捕獲して食べるそうです。
幼虫体のときはクズの茎の中にいてクズの養分を吸収してそのまま蛹になり、成虫体になるとコガネムシのようなフォルムをしています。外来種なのだそう。
この「フェモ(そう呼んでいました)」がとても美味なんだそう。
仮に何も知らないでこのフェモを見つけたとしても、
「食べる」なんていう発想にはまずならないでしょう。
疑うべきは常識
アリも、キリギリスも、フェモも、食べものとしては一般的ではありません。
ですが食べてみて、それが美味しく食べられる食材であるならばその瞬間から「食べもの」になります。
誤解なきよう言っておきたいのですが、昆虫食を推奨しているとかそういうことではありません。
私自身、昆虫以外もけっこう食べますし。
蛇や野草やハクビシンとか。一般的に、「え?食べるの?」というものを積極的に食べます。
それは「なぜか?」ということを真剣に考えてみたのですが、
根底にあるのは、「常識ってなんだよ」という精神なんだと思います。
幼稚園児時代の偏(変)食黎明期に始まってから今まで、
「食べる」という行為を通して「そういう(もの)ことだから」に抗っています。
「食べる」という行為は生存するための基本行動で、
それ故に自らの意識や知識、文化的背景に強く結びついていて、担保されています。
逆を言えば、
「食べる」行為から意識(凝り固まった常識)を崩していけるのでは?、と思っています。
「食べられるモノ」と「食べられないモノ」の区別。
そんなものは海を越えれば逆転していることなんてざらにあるし、
文化や宗教によってもころころと変わる。
今ココでの、自分の中の常識は常識ではない。
その姿勢と意識を常に持ち続けていたいので、
偏(変)食はこれからも続けていこうと思っています。