命と心、静と動

命と心、静と動

2020年5月16日
考えること。

先日、友人が沖縄に滞在していたときの出来事が印象的で、その話がきっかけとなって、思考がぶわーっと再構築されていく感覚があったので書き留めておこうと思う。

「命をどう捉えるか」みたいな話。

友人が沖縄のある農園にウーファーとしてステイしていたときに、その農園で飼育していたイノシシ(元は野生にいたものを捕まえてきたらしい)を絞めて食べるという出来事があった。

親子のイノシシで、
子に愛情を注ぐ母親たる様、子の無邪気さ、日々それらを目にしていたわけだが、
ある日、突然に、あっけなく、イノシシは殺されて肉になった。

「生きるためには食べなきゃいかんし、殺さなきゃ食べられんだろ?」

イノシシを絞めた農園の方はこう言い放ったそうだ。

この言葉だけを切り取ると、無感情と言うか、冷酷というか、
あまりにもドライじゃないかと感じてしまう。

が、ぼくはこの言葉に強い共感を抱いた。

【超然】

現地の人は、非常に達観した死生観を持っているのだと思う。

そこに特別な感情を持ち込んでいないから、
命の“生死”にいちいち一喜一憂していない。

狩猟をやるようになって以降、自分の中でもその感覚が色濃くなっていると思う。

罠や鉄砲で獣を獲ることに対して、

「かわいそう」とか「悲しい」という感情はもう持っていない。

“馴れ”だろうか。

「生きるとはこういうことでしょ?」と思っている。

自然の中では、徹底して、すべての命が平等に扱われる。

「すべての命が平等に扱われる」というのは、「すべての命が大切にされる」ということでは、ない。

感情に左右されるような忖度は微塵もなくて、
ただ“適者生存”という摂理があるだけ、ということ。

平等に生かされるし、平等に命を奪われもする。

イノシシを殺めた沖縄の農園の方のマインドは、
それと同質なのじゃないのかな、と思っている。

【純粋】

少し前まで、採卵鶏を5羽飼育していたのだけど、ある日突然、惨殺された。

喉元を噛まれていたり、頭部を噛みちぎられて、ただ殺されていた。

肉を食べるわけでもなく。

イタチかテンの仕業だろうと思われる。

悲しいという感情も湧いたのだけど、それ以上に、

「動物もこういうことするのだな」

と冷静な思考の方が強かった。

辺りに散乱した羽を見ていると、本能に任せて、というのか、抑えられない昂奮を剥き出しにして、
好奇心の赴くがままに、鶏たちを追い回す光景が浮かんできた。

本能と欲望に忠実。純粋さ故の残虐性と嗜虐性。

このときにぼくはあることを思い出していた。

幼少期に、面白がって蟻を踏みつぶした記憶。

カマキリに寄生するというハリガネムシをどうしても見たくて、水に沈めたり、潰したことも。

その行為が「命を弄んでいる」という認識なんて欠片もなくて、
おもしろくて、知りたくて、夢中だった。

鶏を噛み殺すという小動物の行為と、幼少期のぼくの行為の根源にたいした違いはない気がしている。

残酷だ。けれど純粋で、自然だとも思う。

心の距離

狩猟を始めて、あることに気が付いた。

自分の足で山を歩いて、知恵と経験を総動員して、獲った獣の命と、
他の人が獲った獣の命。

両者の命の価値には圧倒的な差がある、ということ。

他人が獲った獣に対しては、どう頑張っても、ある一定以上の熱量を注げないのだ。

解体をするにしても、
精肉をするにしても、
食べるにしても、
プロセスをほとんど知らなくて、そこにあまり関与していない獣のお肉は、
スーパーで市販されているパック詰めのお肉とさほどの差はない。

どうやらそういう捉え方の傾向と性質を持っているらしい。

その“癖”のルールを考えてみた。

答えはシンプルで、関連度と関心度(モチベーション)は比例しているからだった。

一つの命に対して、獲るまでのプロセスにどれだけ関わり、
“自分がどれだけ対象とのストーリーを紡ぎあげてきているか”という関連度数が高まるほど、
関心度数(獣の捌き方に注ぐ熱量や、自分自身の向き合い方や感情・思考に対する観察力)も高くなる。

つまり、命の価値は自分の心が決めている

テレビのニュースで報道されるような、画面越しの、どこの誰かも分からない人の死。

自分にとって大切な人、近しい人の死。

両者の命の価値は、同じではない。

これから暑くなると、虫がわんさか湧き始めるようになる。

「鬱陶しいな」とパンっと手でつぶした一匹の蚊の命。

道のど真ん中で轢き殺されて死んでいた野良猫の死。

両者の死を自分の中に受け止めるときの感情の動きはきっと同質ではないと思う。

狩猟をやっているぼくの命の捉え方、

“画面向こうの人の死”と“近しい人の死”、

“蚊の死”と“野良猫の死”、

そのすべての判断基準になっているものは、

対象との“心の距離”なのだろうと思う。

矛盾

自然の摂理・循環の中で定義づけられる命。諸行無常の流れに身を任す一要素としての命。

それを知りつつも、心が、感情と思考が、命に意味付けし、価値を付与する。不確かで、揺らめく。

矛盾している。

いっそのこと、割り切って超然とした態度で統一できてしまえれば楽なんだろうけど、それでは人に“心”という機能が存在している意味は無視されてしまう。ぼくはそこで完結にしたくはない。

それに、この自己矛盾している状況が、いかにも人間っぽくてなんだかおもしろい。

「どちらが正しいか」をジャッジして、一つの尺度にはめ込むことにあまり意味はない気がしている。

「幅があり、揺らぎがあって、理解できないものだらけなんだということの“理解”」を深めていくことの方が重要なんだと思う。

その先のゴールは見えないし、一向に辿り着く気配もないけど。

“話はそこから”な気がしている。

最近読み進めている「もの食う人々」という著書の中では、こんな一節があった。

月曜の朝。
ダッカ駅の跨線橋のたもとに、一つの死体があった。
スラムの男の、ただの枯れ枝のようななきがら。残飯すら食えなかったのかもしれない。
残飯売り場のと同じ緑色の線香がビールの空き缶に立てられていた。それは、線路沿いの地べたでその日の食を調理する貧しい人の群れの風景と奇妙に溶けあっていて、道往く者はむくろを目の端に入れてなお顔色も変えないのだった。

「もの食う人々」辺見 庸 著

その場にいたら、どんなことを思うのだろうか。

その光景を目にしている人たちの心は命をどう捉えているのだろうか。